
多くの研修をしていると、稀に少し反抗的に見える人もいます。
講師のガイドを無視したり、ヤジを飛ばしたり、グループワーク中に大声で雑談してみたり・・・・
以前は「何とかしなきゃ」と焦ったりしたこともありましたが、最近はほとんど気にならなくなりました。ただし、その人を放置したり、無視したり、、ということではありません。
代わりに、自分の内側で起きていることに目を向けるようになってきたのです。「自分がこんなに一生懸命やっているのに!」という怒りや「矯正しなくては」という囚われがあると、講師としてもその人に対して棘が出てきたり、必要以上に干渉してしまったりします。そして、それがかえって相手の反発を産み、心の距離が離れてしまう原因になるように思います。
ポイントは相手を「矯正」しようとするのではなく、相手を「理解」しようとする講師側のあり方だと思うのです。
「どうしてこのような態度を取るのだろう?」と想像してみると・・・・
「会社への不満があるのかな?」
「自分自身の将来に不安があるのかな?」
「現場が忙しいのに、強引にこの研修が企画されたのかな?」
などと色々な可能性が思い浮かんできて、少しだけ優しい気持ちになってきます(ほとんど妄想ですね 笑)。
ともかく、そんな風にして自分の内なる怒りのボリュームが下がっていくと、はじめて、その人と私の間にコミュニケーションを取るための架け橋が少しずつ出来てくるように思うのです。
そうすると不思議なもので、反抗的だった人も、研修の終わりに私のところに来て「けっこう学ぶところもありました、ありがとうございました。」などとボソッと言ってくれたりすることがあります。
講師としてはけっこう好きな瞬間の一つです。
心理学者の河合隼雄さんが、ベストセラーになった「こころの処方箋」の中で、「心の中の勝負は51対49であることが多い」と書いています。
あるとき、無理に連れて来られた高校生で、椅子を後ろに向け、私に背を向けて坐った子が居た。
このようなときは、われわれはむしろ、やりやすい子が来たと思う。(中略)こんなときに私が落ち着いていられるのは、心のなかのことは、だいたいが51対49くらいのところで勝負がついていることが多いと思っているからである。この高校生にしても、カウンセラーのところなど行くものか、という気持の反面、ひょっとしてカウンセラーという人が自分の苦しみをわかってくれるかも知れないと思っているのだ。人の助けなど借りるものか、という気持と、藁にすがってでも助かりたいという気持ちが共存している。しかしものごとをどちらかに決める場合は、その相反する気持ちの間で勝負が決まり、「助けを借りない」というほうが勝つと、それだけが前面に出てきて主張される。しかし、その実はその反対の傾向が潜在していて、それは51対49と言いたいほどのきわどい差であることが多い。
51対49というと僅かの差である。しかし、多くの場合、底の方の対立は無意識のなかに沈んでしまい、意識されるところでは、2対0の勝負のように感じられている。サッカーの勝負だと、2対0なら完勝である。従って、意識的には片方が非常に強く主張されるのだが、その実はそれほど一方的ではないのである。
このあたりの感じがつかめてくると、「お前なんかに話をするものか」などと言われたりしても、あんがい落ち着いていられるのである。じっくり構えていると、どんなことが生じてくるか、まだまだわからないのである。
河合隼雄「こころの処方箋」より
反抗的な人の「研修なんか受けたくない」という気持ちが51くらいで、無意識では「何か研修を通じてヒントが得られるかもしれない」という気持ちが49くらい眠っているかもしれないと考えてみれば、講師としての心の持ちようも変わってくると思うのです。
やる気がないように見える人も、「頑張りたい」という気持ちがどこかにあるのかもしれない。
49:51が51:49に逆転するかもしれない。
変わらないかもしれないけど、変わるかもしれない。
そんなスタンスも、「51」くらいは持っておきたいものだと思います。
守屋文貴
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